ノートの切れ端


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5.2 - アンリ・シャルパンティエのクレープシュゼット(2)

目の前に置かれたダージリンがふわりと香る。ふわふわ漂う湯気は現実感を溶かしていく。

アンリシャルパンティエのサロンは地下にある。広くて白くて明るいケーキブティックになっている地上階とはまったく趣が違っていて、ここの地下には入るたびに少し戸惑う。密やかに息づいた別の世界に足を踏み入れたみたい。

ビビッドなピンクだとか紫を基調とした内装は、でも過度に華やかには流されてはいない。階段を取り囲むような本棚は吹き抜け2階分の高さがある。十段以上の棚に辞書みたいな本がぎっしり詰め込まれている様子は現実感を狂わせるし、一方で地面のテーブルやいすなどの調度は黒を基調としていて重厚。

ファンタジー小説を見ているかのような浮世離れした世界観の中にいると、なんだか落ち着かない。だからとりあえず紅茶を啜った。

ダージリンはあまり好きではない。ふわふわとした柔らかな華やかさを持っているこの紅茶は、その一方で寄って立つべき中心を持っていない。足場が定まらないから、よく揺れるしよく転ぶ。どこまで行っても実体がない手元の蜃気楼みたいな世界で、不安になってしまうのだ。

もっと率直に行ってしまえば、私は少し重くても分かりやすい味の紅茶のほうが好き。セイロンのストレートとか。ただ今日はあくまでもクレープシュゼットを食べるということが目的だから、強くて香りを邪魔する飲み物は避けたのだ。

遠くでオレンジの香りがしている。多分、ほかの誰かがクレープシュゼットを食べているのだろうと思う。身体の中にたまったオレンジはしゅわしゅわと揮発していって内側からやわらかな圧力をかけている。呼吸をしないと破裂しそうなくらいに。

ちょっと迷いながら、私は口を開いた。

「うちの課に、新しく人が入ってきたの」

「このご時世に、いいなぁ。そんなに仕事って忙しいの?」

「そこまでじゃないけど。でもその人は技術営業で入ってきたから、全然仕事は別みたい」

「ふーん」

「昨日、たまたまその人と一緒に休憩してたんだけど、ファンタオレンジを飲んでて」

「懐かしいなぁファンタとか。僕も高校の頃は良く飲んでた。ピーチ味が好きだったなぁ」

「私はラフランスが好きだった。でも、すぐ無くなっちゃったんだよね。期間限定で。夏の部活の後とか、よく飲んでたなぁ」

「身体を動かした後で飲むのは本当においしかったね」

昨日ファンタの缶が開いてから、幾度となく高校の頃のことを思い出していた。あまり熱心でないバトミントン部員だった私は、蒸し風呂みたいな体育館の隅で、吹き抜ける南風を恋いながら何人かの友達と話をしていた。

毎月のように刻々と変わる恋愛事情を横目で見ながら、恋愛に本気になれるエネルギーってどこからわいてくるんだろうって考えていた。いいなぁと思う男子はいても、別に運命を賭けるほどじゃない。あの頃幾度となく飲んだファンタオレンジは、高揚した気分をどこにも連れて行ってはくれなかった。

「なんかすごく懐かしい気分になって。しかも予想以上にオレンジの香りがすごくて。その時に思ったの。オレンジいいなぁって。」

「なんかずいぶんオレンジづいてるんだね。いいな。これから冬に向けて、クレープシュゼットのシーズンだよ」

話していてもオレンジの香りが頭の片隅から消えない。

私は気付く。うすうす分かっていたことだけれど。これはクレープシュゼットの香りではない。ファンタオレンジの香りだ。夏の片隅に群生しているオレンジの果実。私はそんな香りを吹き飛ばしたくて、無理やり笑った。

「オレンジの季節もそろそろ終わっちゃうけどね」

「ん?オレンジの季節?」原田君は首をかしげた。「ファンタオレンジに限って言うなら、多分バレンシアオレンジだから確かにそうだけど」

「え? 他にもあるの?」オレンジなんて全部夏の果物だと思っていた。

「ネーブルオレンジなんかはちょうど、もうそろそろシーズンなんじゃない?」

「冬なのにオレンジができるの?」

「うん。ネーブルはバレンシアよりも甘くて香りも強いよ」

知らなかった。秋が深まれば、オレンジの季節はどんどん過ぎ去っていくものだと思っていた。きんもくせいが咲いて、散って、雪が降った後には梅が開いて、どんどん忘れていくものだと思っていた。

奥のほうから、からからとワゴンが運ばれてくる。コンロの上にフライパンがあり、なみなみと入ったオレンジソースとグランマルニエが載ったワゴンだ。

お待たせいたしました、今からお作りいたします。といった店員の声に私と原田君は頷く。ガスコンロに火が入れられ、オレンジソースはクレープをその海に浸しながら、ゆっくりと絡み、染み込んでいく。クレープは徐々にその色を変える。オレンジを吸いきって再構成された身体は、全然別のものに生まれ変わったみたい。

この時点でもオレンジの香りは私たちの周りに漂い始めている。密やかだけれど圧倒的な力を持って。しかし、そのひっそりとバランスした大気とオレンジの均衡は、グランマルニエがフライパンに注ぎこまれ、ガスコンロの火を燃やしフランベされた瞬間に一気に崩れる。一瞬で気化したオレンジは爆発的に世界の色を塗り替える。息がつまりそうなほどに濃密なオレンジの香気が私を包む。まるで世界中がオレンジ色に染まったみたいで、私という存在を明確に投影する。世界と私との境界を再確認するように。

白い皿に、濃厚な色のオレンジバターソース。クレープはその中に浮かんでいる。

フライパンから二人の皿に取り分けるとき、ナイフをすっとクレープに入れるとき、口に入れやすいように切ったクレープの切れ端をくるくると巻くとき、オレンジ色の海の中から取り出すとき。燃え残ったオレンジのかけらはきらきらと星みたいに弾ける。まるでグランマルニエのアルコールがまだ残っているようで、視界は一点に定まらずに浮遊する。泳いでいるみたい。

「おいしい」私がかすれ気味の声で呟くと、原田君もゆっくり頷いた。甘さと酸味、そして苦味が効いたとろけそうなクレープ。そのクレープを、内包する暖かな海ごと飲み下すような感覚は、私をすごく不安にさせる。

「これもまた、ファンタオレンジとは違う香りだよね」

原田君の言葉にどきりとする。そうだ。香りが違うのだ。

「これもさっき言ってたネーブル?」

「それとも違うと思うよ。ネーブルもバレンシアもこんなに苦くはないから。多分別の品種」

それはあの時に感じた解放感ではない。全く逆の、私が世界から切り離されているという感覚。オレンジ色の世界で、私の境界から内側だけが溶けきらずに浮かび上がっていた。

オレンジは私を覚醒させる。多分、あまりにもオレンジが強すぎるのだ。秋風に湿気が吹き飛ばされて、今まで見えなかったのに突然はっきりと姿を見せた、世界の境界線。

オレンジ色の海が濃厚すぎるからなのだろうか。無性に喉が渇いていた。カップのダージリンを一気に飲み干すけれど、やわらかく揺れる足場に転びそうな感覚を覚えただけだった。喉の渇きを癒してはくれない。
 不安を流してはくれない。
 

オレンジの香りを身体じゅうに浴びながら、なんだか無性にファンタオレンジが飲みたくて、唐突に一つの場面を思い出していた。

これを思い出したのは、雪の降る8号館でコーンポタージュを飲んでいたとき以来だった。

 

「あたしはファンタオレンジを愛しているのです」と、ぴんと張られたネットを見ながら友達の一人が言った。身長は私と同じくらいで、赤い大きなリボンがよく目立っていた。「だから、ファンタオレンジが好きなあの人は運命の人なのです」

「だったら、私だってあなたにとっての運命の人でいいんじゃないの?」私にはその思考が理解できなかった。私と、その子の手の中にあるファンタオレンジを交互に眺める。

「違うよ。そういうのじゃないんだよ」その子は言った。キュッキュッキュと、体育館の床をシューズが擦る音がそこらじゅうで響いていた。ぽーんと山なりの羽根がネットを越えていくのを私は膝を抱えて眺める。

「とろけそうなくらいに暑いとき、喉乾いたでしょって持ってきてくれたのがファンタオレンジだったの。それまでファンタのことなんて話したことなかったのに。これってすごいことだよ?」

ふーん。と私は続いていくラリーを眺めている。この子の運命の人は何人目だったっけ、と考える。

私が見たこともないその人の良さを、熱に浮かされたように語っている。そんな風に楽しめるのが、素直にうらやましかった。

南風は開け放されたドアと窓を通り抜けて、ファンタオレンジの香りをさらっていた。

運命の人なんて、そう何人もいるもんじゃない。私には一人で十分だ。そう思った。

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